中学校時代のことです。
学校のプールで事故があり、素直に寝屋川で葬儀を考えると私の同級生が亡くなりました。
あまりに唐突に起きた事故でした。それまで普通に顔を見ていた同級生が突然いなくなり、
先生たちがみな呆然としていたのを覚えています。
葬式には大阪で人生のしめくくり終活を考えてみると同学年の生徒が全員出席する事になりました。
当日に待ち合わせ場所に行きました。
先に集まった人たちが楽しそうに話しています。私は正直言って、
何でこのひとたちは楽しそうに笑ったり普通に雑談しているのかと唖然としました。
後から来た引率の先生の説教めいた牽制によって、家族葬をおすすめ順でご紹介する専門施設を大阪でようやくその場での振る舞いを思い出したかのように、皆が一斉に神妙な表情に変化したのを見ました。
その後連れ立って葬儀の会場に行き、いざ葬式が始まった時、
私はさらに戸惑い、唖然としました。
女子の中の何人かが、大阪でできるなら家族葬専門ランキングをこらえられないとばかりに泣き出したのです!
その様子は次第に周囲に広がっていきます。泣き声は少しづつ大きくなり、葬式の会場は
すっかり「悲しい人たち」でいっぱいになりました。その中には、さっきまで「あと何日で家族旅行に行けるか」で盛り上がっていた女の子もいます。本当の直葬を大阪で行えるのは他愛のないバカ話で大声を張り上げていた人もいます。夏休みに行ったラーメン屋自慢をしている人もいます。
悲しい気持ちにならないのは仕方無いことでしょう。同級生が突然死んだといわれても、まったく現実感が沸かないのもわかります。ただ、「周りの目やその場の空気を読むことだけを優先する」ということが、多くの散骨を扱う大阪の業者は本当に悲しみに暮れている遺族の皆さんや、亡くなった人に対する気持ちが消化できない人間にとって、どれだけ残酷なことか。
私があの日見た同級生たちはまるで昆虫のように機械的な動きをする生物に見えました。その時の記憶が、あの時に感じた大きな違和感とともに、今でも私の脳にこびりついて離れないでいます。